龍馬伝 高杉晋作 一口メモ

役に立つと思った知識や情報、思いついたこと、発見したことなどを書き留めておくサイトです。高杉晋作に関連して発見したことや気付いたこと、面白いと思ったこと、感想など。一口メモを募集しています。こちらからエントリーできます。


龍馬伝「新天地、長崎」より。
海軍操練所が廃止となり行き場のなくなった坂本龍馬・沢村惣之丞・近藤長次郎・陸奥陽之助(陸奥宗光)は長崎へ向かう。
龍馬たちは、イギリスの貿易商トマスグラバーと会う。トマスグラバーは、日本に来てわずか3年で巨万の富を築いた人物。
龍馬たちは、船を貸してほしいとの交渉を持ちかけるが、トマスグラバーはレンタル料として高額な値段をふっかけ交渉は決裂する。
龍馬たちは、長崎にある引田屋という料亭に入り、そこで長州藩の高杉晋作と会う。
しかし長州藩は、薩摩と対立していて、長州藩士が長崎へ入ることは禁止されていた。
高杉晋作らは、料亭で薩摩藩士に見つかり、捕えられそうになるが、ピストルで威嚇して逃走する。
幕府はフランスの後ろ盾にして、今後、藩が異国と貿易をするときは幕府の承諾を必要とさせた。
そのころイギリスの商人同士の会話によると、
イギリスが日本に戦争を仕掛けて降伏させようと企んでいるという。兵庫に上陸したのち大阪を制圧し、京都のミカドをおさえて、江戸幕府を降伏させるという。

龍馬ら亀谷社中は、下関馬関で長州藩の高杉晋作ら奇兵隊と合流し、幕府軍と戦う。
慶応2年1866年6月7日、幕府軍は長州への攻撃を開始した。
高杉晋作「100万の大軍おそるるに足らず。おそるるべきは我ら弱き民、一人ひとりの民の心なり」
戦の場所は馬関。
亀谷社中と奇兵隊は幕府軍に対して奇襲攻撃をかけ、これに成功する。
幕府軍は小倉城に火をつけて逃走。
幕府軍が長州軍に敗れる。
長州攻めを行ったことより米の価格が高騰し、民の不満が高まる。
そして1866年7月20日、第14代将軍の徳川家茂が脚気により亡くなる。
坂本龍馬、長州藩主の毛利敬親よりお礼の言葉を受ける。
そして龍馬は、木戸孝光(桂小五郎)に幕府と戦をするのをやめて、大政奉還をせまるよう薦めるが、それは難しいとして拒否される。
一方で、岩崎弥太郎は土佐商会として、長崎で外国人を相手に、土佐名物の和紙やしょうのうの商売をしていた。龍馬の友人である溝渕増巳も岩崎弥太郎のもとで働くこととなった。
龍馬伝「馬関の奇跡」

坂本龍馬は自らを才谷梅太郎と名乗り、
龍馬ら亀山社中は、「海援隊」と名称を改める。
海援隊は、土佐藩の後ろ盾のもとで表向きは資金集めのためのビジネスを行い、本当の目的を薩長とともに大政奉還を目指す。
海援隊の会計(経理)は、岩崎弥太郎が行うこととなった。
さらに岩崎弥太郎は、海援隊が物資を運ぶ船となる「いろは号」を大洲藩と交渉し譲り受ける。
龍馬は再び木戸孝光(桂小五郎)との話し合いの場で、土佐藩が薩長に近づいたことで大政奉還の実現性が高くなったので力づくでの討幕をやめるよう説得を試みるが、木戸孝光はこれを否定する。その場に居合わせた高杉晋作も木戸孝光に大政奉還が望ましいともちかけるも難色を示す。
高杉晋作の病状は、さらに悪化し、慶応3年4月・高杉晋作は志半ばで亡くなる。
そのころ中岡新太郎は龍馬のもとをお度ずれて陸援隊を作り、募力による討幕を目指すことを、龍馬に伝える。
龍馬伝「さらば高杉晋作」

後藤象次郎は、岩崎弥太郎を世話役とし土佐藩のために異国と商売をするよう命ずる。そして通訳にジョン万次郎をつける。
龍馬は、寺田屋で負傷した傷の療養と、これからなすべきことの決意を心に刻むために、吉井幸蔵とお龍とともに霧島山(高千穂峰)に登る。
霧島山は女人禁制のため、お龍は男装して登る。
高千穂峰は、天照大神の御孫であるニニギノミコトが乱れた日本をおさめるために降臨したという伝説があり、その頂には天の逆鉾が突き立てられている。
龍馬はこれを引き抜いて、これからすべきことの決意表明をする。
慶応2年1866年6月幕府軍が長州に攻め込む
高杉晋作が陣頭に立って応戦する。
長州兵4000に対して幕府軍は15万。
龍馬は西郷吉之助に薩摩から長州に援軍を送るよう嘆願するが、薩摩は兵を動かず。
大島が幕府軍の手に落ちる。
そのころ亀山社中では、ワイルウェフ号が嵐にあい、長崎の芸子・お元に結婚を申し込んでいた池内蔵太が命を落とす。
龍馬伝「霧島の誓い」より

後藤象次郎の命で、薩摩の動きを偵察するために京へ来ていた岩崎弥太郎は、新撰組につかまってしまい、
厳しい取り調べを受ける。

お龍が働く京の寺田屋に龍馬は身を寄せていた。
そのころ京の薩摩藩邸では、西郷吉之助と木戸孝充(桂小五郎の幕府に悟られないための別名)との間で薩長同盟の話し合いが行われていたが、幕府に悟られないよう小松帯刀邸に場所を移す。
この話をお龍から龍馬は高杉晋作から龍馬の護衛を任されていた三吉慎蔵とともに、小松帯刀邸へ向かい、
慶応2年(1866年1月22日)坂本龍馬が立会のもと、薩摩藩(西郷吉之助)と長州藩(木戸孝充)との間で密約が締結される。
長州が幕府から攻撃を受けた時は、薩摩は長州を徹頭徹尾助けるという内容のものだった。
これより龍馬は幕府から追われる身となる。
龍馬伝「薩長同盟ぜよ」より

吉田松陰(長州藩士1830−1859)叔父が主催していた松下村塾を名前を引き継いで、「松下村塾」を開く。弟子には、久坂玄瑞・伊藤博文・高杉晋作・桂小五郎・山形有明など名だたる人物がいる。
自分のことを「僕(ぼく)」といい、弟子のことを「あなた」という。
龍馬伝では、黒船とともにペリーが来航した時に、弟子の金子重之助とともに、小舟で黒船に乗り込もうとするシーンで登場する。
これがキッカケで2人は捕えられ、吉田松陰は「野山獄」に、金子重之助は「岩倉獄」に投獄される。2つの牢獄はひとつの道を挟んで向かい合った場所にある。